役行者物語 9(31-34)
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不思議な世界 1

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役行者小角 物語  (えんのぎょうじゃ おづぬ)



 第9章 死刑の宣告
 ■ 第31話 妖惑の罪

 役人たちは、あらゆる手を使っても小角を捕まえられないので、困り果てていた。どうして捕まえたらいいものかと知恵をしぼり、遂に卑怯な手を思いついた。年のいった小角の母を人質に取って、役所へ来るようにいった。

 役人をやっつけるのは簡単だが、もし母に怪我をさせたら大変と、小角は自ら役所へ出かけた。役人は、一言主神の訴えによって、小角を謀反の罪で取り調べたが、証拠になるようなものはなく、小角に関わった人々も呼ばれて取り調べられた。
 その結果、小角が奇妙な呪いをかけたりインチキな薬を飲ませたりしたということで、「妖惑の罪」だとして裁判にかけた。


 小角は、中流の伊豆大島に遠流されることになった。


 699年5月25日、小角は、役人に連れられて、船で伊豆大島へ向かった。途中、大嵐に遭って、船が幾度か沈みそうになったが、役行者が船の舳先に立って一心に「孔雀明王の呪」を唱えると、不思議なことに嵐が止んで波が治まった。
 伊豆大島が見えると、役人や舟乗りたちは、飛び上がって喜び、「行者さま、小角さま。」と、心から礼をいった。


役行者が修行した役行者洞(上)

役行者の遠流地=泉津村(○印)

 伊豆大島は、かなり大きな島で周りが約十里(39km)もある。島の中心にある三原の山の火口からは、真っ黒い煙と真っ赤な火が噴き出していた。

 小角は、島の東北の海辺にある泉津村(せんづむら)へ連れていかれた。島の流人たちは、日焼けした顔をして、新しく送られてきた小角の顔を探るような鋭い目つきで睨みつけた。



解 説

 その頃に定められた律令によると、「妖惑の罪」を犯した者は、遠流(えんる)といって、地方へ流されることになっていた。
 遠流にも、近流・中流・遠流とあって、最も近いのは北陸の越前国や四国の伊予国、最も遠いのは関東の常陸国など6ヵ国が決められていた。
 昭和30年(1955)、旧岡田村・元村・泉津村・野増村・差木地村・波浮港村が合併して、伊豆大島全域を町域とする大島町が発足した。旧泉津村は万根岬にあり、役行者洞は大島公園動物園と「海のふるさと村」の中間にある。洞窟内の役行者石像は、僧衣をかぶり、右手に錫杖、左手に経巻を持ち、高下駄を履いている。



 ■ 第32話 伊豆の奇変 1

 小角の修行生活は、葛木や大峯などの険しい山を巡る山林の中が多かった。だから、太陽が照りつけ、潮風に吹かれる海辺の生活は、小角にとって、まったく新しい日々だった。


 珍しい生活も、日が経つに連れて慣れてきた。小角は、また、呪術の修行をしなければいけないと思うようになっていた。


伊豆大島から見た富士山

伊豆大島の三原山

 小角は、空に登る飛行の術を試みた。いつも眺めている富士山へ飛んでみようと決めて飛んでみると、まるで羽が生えたようにフワフワと飛べたた。
 小角は、昼間は刑に服して、夜になると、鎌倉や箱根、熱海などの上空を飛んだ。小角は、富士山の麓でも修行した。


 その頃、伊豆大島では、次々と不思議なことが起こり、村人たちは気味悪がっていた。

 大島の雲の中に五重塔がそびえ立っているとか、夜になると三原山から松明(たいまつ)のような火の行列が天へ昇って行くとか、いろいろな噂が広まっていた。
 これらの現象は、小角が飛行の術を使った後に、決まって現われた。


 小角は、天気の悪い日には、岩屋にこもって、流木に仏像を彫ったりしていた。そして、いつの間にか、3年の月日が経っていた。


解 説

  役行者が修行したという伝説のある行者浜(ぎょうじゃはま)で、毎年6月15日に行者祭りが行われている。

東京都大島町HP / 伊豆大島ガイド / 伊豆大島だより

 熱海の市街地から少し外れた山の中腹にある足立権現社(伊豆山神社の末社)に役行者が祀られている。足立権現社は、明治の神仏分離まで伊豆山権現(走湯権現)として、山岳信仰で隆盛をきわめた。
 この神社の下の海辺近くの洞窟には、熱海の温泉の源泉として有名な走り湯があって、伊豆大島に流された役行者が度々ここに飛んで来ては修行をしたと伝えられている。足立権現社は、その名残りだという。

伊豆山温泉 (神奈川県熱海市)

伊豆大島の役行者祭り


 ■ 第33話 伊豆の奇変 2

 その頃、都では、藤原氏一族が次第に勢力をもち始めていた。まだ若い文武天皇よりも、その母の持統太上上皇が、実権を握っていた。


 新しい「律令」が決められ、それを実行に移そうとしていた。また、新しい貨幣を造る案もあって、そのために、金、銀、銅などの金属が必要になっていた。
 それで、各地の国の役人に、金銀のある山を調査するようにとの命令が出されていた。近江や伊勢、伊予の国などから報告があったが、思ったほどの量ではなかったため、改めて畿内へ巡察使が派遣された。

 すると、山林修行の優婆塞たちが、密かに金を探っているということが判った。それで、伊豆に流されている小角は新たな疑いがかけられ、厳しい検察の目が向けられた。


 その頃、瀬戸内の海を一隻の小舟が漂っていた。舟には、前鬼と後鬼(義覚と義玄)が乗り込んでいた。
 小角が、伊豆大島へ流されたので、茅原の新井の里で祀っていた「熊の権現」を、どこか安全な場所へ移したいと場所を探していたのだった。

 途中、いろいろな困難があったが、前鬼と後鬼は、やっと岡山に近い石榴(ざくろ)の浜にたどり着いた。
 二人は、そこの地主神である福岡明神に導かれて、無事に「熊野権現」を鎮めることができた。



新熊野熊野神社の鳥居

参道 (倉敷市西阿知町)

新熊野熊野神社の本殿


解 説

 太上天皇(たいじょうてんのう、だじょうてんのう)とは、皇位を後継者に譲った天皇、または、その人の称号のこと。上皇(じょうこう)と略することが多い。

 奈良時代697年、役行者が伊豆に流された後、義学・義玄・義真・寿玄・芳玄を中心とする弟子たちは、後難をおそれて、紀州熊野の十二社権現の御神体を守って瀬戸内海に逃れた。内海各地を三年間もさまよった後、大宝元年(701)、備前児島半島に上陸した。そして、天平宝宇5年(761)、福岡村(現在地; 倉敷市林)に新たに熊野神社の社殿(本宮)を建てて、熊野十二社権現の御神体を安置した。
 この新熊野神社と五流尊瀧院を合わせて新熊野権現(いまくまのごんげん)と呼ばれた。
 天平12年(740)聖武天皇から神領として児島郡を頂き、天平宝字五年 (761)熊野権現の社殿と本地堂・千射仏堂・五重塔・鐘楼・仁王門をたて、新熊野山(いまくまのやま)と号した。
 次いで、児島郡木見村(倉敷市木見)に新宮諸興寺を、山村(倉敷市由加)に本地堂を設けて、新熊野山瑜伽寺(ゆがじ; 現在の瑜伽山蓮台寺)と号した。本宮と瑜伽寺、諸興寺の3つを合わせて新熊野三山とした。
 天台密教系修験道の総本山=五流尊瀧院は、熊野神社に隣接して岡山県倉敷市林にある。五流尊龍院の三重塔は、新熊野神社と同じ境内に建っている。本尊は、役行者=神変大菩薩で、脇侍の不動明王が左右に祀られている。
 修験道での加持祈祷や修行の中心となる場所が護摩堂で、本堂と呼ばれる。



五流尊龍院境内の役行者像

五流尊龍院境内の不動明王像


 ■ 第34話 謀反の罪 死刑宣告

 葛城山から金峯山にかけて山林修行をしている者たちが、山人たちを巻き込んで、何か怪しいことを企んでいるという噂が役人の耳に入った。
 また、火薬のようなものを作っているらしいという密告もあった。さらに、山中で金を掘っていたらしい跡があると届け出た者もいた。

 文武天皇の時代の700年、検察使が畿内に遣わされた。いろいろと調べて行くうちに、どうも伊豆にいる小角について、疑いが出てきた。
 役人たちは、小角を重い罪にする証拠を欲しがっていた。だが、証拠になるようなものは何もなかった。役所は、大いに困っていた。




役行者像
 観国連広足(からくにむらじひろたり)が、小角について密告してきたことがあったので、調べ直した。そして、小角には「妖惑の罪」のほかに、謀反の疑いがあるということにした。

 その時、葛城の一言主神に仕えていた神人が、神のお告げだといって小角について奇妙なことをいいふらしていた。この知らせが、役所にも届いた。
 「役の優婆塞が、帰ってくる。優婆塞が帰ってくると、大和の国が滅ぶ。早く、殺してしまえ。死置きだ。死刑だ。優婆塞が飛んでくると、大事になるぞ!」

 この噂は噂を呼んで、人々の間に広まっていった。それは、「小角を早く死刑にしないと、修行者たちが集まって謀反を起こす。」という噂だった。これは、広足が訴えた通りの内容だった。

 広まっていた噂が、検察使の耳に入った。小角は、改めて重罪にされた。新しい律令は、国に対する謀反者は「みな斬る」と定めていた。


 小角の死刑が、決まった。



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