役行者和讃
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小角は、伊豆大島から無事に母の住む茅原の里に帰って来れたのは神仏のお蔭だと感謝して、お礼参りの旅へ出た。
まず最初に、箕面の滝元の竜樹菩薩に詣でた。次に、遠い熊野の三所権現に参詣した。
そして、最後、大峯山の蔵王権現に詣るために、山上ヶ岳の麓にある後鬼の里の洞川に着いた。
小角が遠流になったことは、この里にも伝わっていた。小角が無事に帰って来たと聞き、村中の人たちが集まってきて、みんな大喜びして踊り回った。

ところで、小角は、何事かを心に秘めて悩んでいた。
小角は、どうやら日本の国から離れる覚悟を決めたようだった。
小角は、その前に、まず、先祖の供養をしておかなければと思った。小角は、先祖を供養するのに一番ふさわしい場所として、大峯の奥にある深仙へ行った。
深仙は、大峯山中でも不思議な霊気が漂う静かなこもり場で、小角は、ここに着くと、まず罪汚れを祓う呪法を行った。
それから、毎日、小石をこつこつと集めては、一心に卒塔婆を刻み始めた。そして、遂に一千基もの卒塔婆ができあがった。

小角は、空鉢ヶ岳で、先祖供養の式をすることにした。
その法要の導師として、唐の国では第三の仙人と尊ばれている北斗大師を頼んだ。
3月12日の供養の日、金剛童子と寂光童子は北斗大師を迎えに出た。そして、まだ夜も明けやらぬ寅の刻(午前4時頃)、北斗大師の一行は、金剛仙や神仙の峯を越えて、深仙に着いた。
この時、神通力をもった天の神山の神たちを初めとして、方々の山から380人の仙人たちも集まって来た。
法事の式は、厳かに行われた。まず、小角は立ち並んでいる千基の石塔を前に、うやうやしくぬかずいて、北斗大師のもとで盛大な供養が行われた。
夕闇の迫る申の刻(午後4時頃)、すべての行事が終わった。
その最後に、小角は、「どうか、これらの塔婆を私が願う場所に速やかに隠し給え!」と願って、天地の神々に祈りを捧げた。
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解 説 |
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毎年8月に行われる洞川の「行者祭り」は、役行者小角が伊豆から無事に帰って来たことを祝った村人たちの喜びを表している。

洞川の行者祭り by ならグルグル散歩
未来の世に弥勒菩薩が現われる時に、小角の求めによって天地の神々が隠した1千基の石の卒塔婆が現われるといわれている。
小角が、日本を去る日が近づいてきた。
小角は、前鬼と後鬼を呼んで命じた。
「私は、いよいよ日本を離れて行くが、お前たちを連れて行くわけにはいかない。だが、私の魂は、この大峯に置いていく。今より後は、お前たちが大峯山に修行に来る人たちをお守りせよ。」
小角は、それから静かに髭をそり落とした。鬼たちは、その髭を埋めて塚をつくった。

小角は、先祖の供養を無事に済ませたので、清々しい気持ちで茅原の家へ帰ってきた。
だが、年老いた母の白專女のことが大きな心残りだった。老い先の短い母を、一人残して行くことはできなかった。小角は、母を伴って、名残りを惜しみながら、茅原の道場を後にした。
前鬼や後鬼は、峠まで見送ってきたが、なおも着いて来ようとする鬼たちを押し留めて、暗峠を越え、箕面をめざした。

母と共に箕面に着いた小角は、まず、一の滝の滝元で竜樹菩薩に祈りを捧げてから、不動明王と孔雀明王の呪文を繰り返し唱えた。
第42代文武天皇の時代(696 - 707)の大宝元年(701)の6月7日、まだ夜も明けやらぬ暁の頃、小角は、母の手を取りながら滝元から東北にある天上ヶ岳への道をゆっくりと登り始めた。
頂上へ着いた小角らは、最後まで従ってきた弟子の本行(ほんぎょう)に向かっていった。
「私は、すでに歳も68になった。私は、仙人としての本寿がある。だから、私の歳は限りない。だが、人間としての寿命は、今年で尽きてしまう。お前たちは、これを決して歎いたり悲しんだりしないでほしい。」
さらに、「私は、修行によって得た法を日本に残しておきたい。お前たちが、私に会いたければ、一心に修行に励め。さすれば、いつでも私に会えるだろう。たとえ、私がこの日本を離れても、私の魂はいつまでも大峯に留まって、決して他には移らないであろう。」と、遺言を残した。

小角は、そういうと、次の言葉を書いて、弟子の本行に手渡した。
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それから、小角は、鉄鉢を傍の岩の上に置いた。そして、まず初めに、四方を拝して一心に祈った。すると、不思議なことに、小角の母は次第に小さくなっていった。小角は、母に鉄鉢の中に入るようにいった。
箕面の天上ヶ岳では、山の神も水の神も、小角と母が去るのを悲しんだ。
山の木も草も、粛々と泣いて、その色さえも変わった。崖の岩や谷の石のすすり泣くような声が、地面から伝わってきた。
小角は、母を乗せた鉄鉢を片手に捧げて、ようやく明けた暁の空の中を五色の雲に乗って天に昇って行った。
こうして、小角は、母と共に日本を離れ、去って行った。それは、大宝元年(701)6月7日のことだった。

役行者像 (箕面 天上ヶ岳)
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解 説 |
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その後、小角は、豊前国の英彦山や、備前国の平戸などで修行したと伝えられた。朝鮮の新羅の国で、見かけたという人もいた。摂津の国で見かけたという人もいて、「これはおかしい」と、みんなで役行者を納めた棺を開けてみた。
すると、棺の中には、袈裟と錫杖と鉄の下駄だけがあって、小角の遺体はなかったという。
昔、中国では、仙人が、一般の人たちには死んだと見せかけて、本当は生きていることを「尸解仙」(しかいせん)といった。この尸解仙は、仙人にだけしかできない、といわれている。
役行者も、大峯で仙人となったのかもしれない。
後の世になって、小角は、修験道を開いた元祖として、人々から大いに崇拝された。
寛政11年(1799)の正月、役氏正統聖護院門跡=盈仁(えいにん)法親王が、役行者小角没後1100年の遠忌に相当するとの文書を天皇に奉じた。
当時の第119代光格天皇(1779 - 1817)は、寛政11年正月25日、役行者の偉大な功績を賞賛し、勅使として烏丸大納言を遣わして「神変大菩薩」(しんぺんだいぼさつ)の称号を贈った。
小角が剃り落とした髭は、髭塚として、今でも奈良県吉野郡下北山村の深仙の地に残されている。
仙人には、本寿があって、その寿命は永久だとされている。
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