第1章 神童 役行者小角の誕生
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■ 第1話 役行者の誕生 ■ |
今から1300年ばかり昔、大和の国の飛鳥地方に都があった頃、後に「役行者小角」と呼ばれる男の子が、葛城山の麓にある葛木上郡の茅原(ちはら)の里(現在の奈良県御所市茅原で、賀茂氏の家に生まれた。
母は、都良女(とらめ)という。
都良女は、葛城の社=高鴨神に奉仕するようになってから、神のお告げを受けるようになっていった。
都良女は、出雲の国から婿を迎えて幸せに暮らしていたが、なかなか世継が授からなかった。
ある夜、都良女が眠っていると、暗い闇の中からキラキラと金色に輝く短い剣のようなものが浮かび、それが静かに下りてきて、いきなり都良女の口の中に入った。
それは、一本の金剛杵(こんごうしょ)だった。
都良女は、驚いて目を覚ました。それは、夢だった。口の中に入った金剛杵は、甘葛をなめたように甘かった。この甘さは、一生、続いたという。
その後、都良女のお腹は段々大きくなって、やがて男の子を産んだ。
「オギャア、オギャア。」と元気で大きな男の子の泣き声は、まるで「私は、世の中の人々を救うために、天から使わされてきた。」といっているように聞こえた。
都良女は、わが子ながら、不思議で、心配で、怖くて、子どもを抱くことさえできなかった。
ある日、都良女は、男の子を家の近くの林の中に、そっと置いてきた。
幾日か後、都良女が、「だんだん弱っていっているだろう」と思って見に行くと、不思議なことが起こっていた。男の子は、林の中で鹿や小鳥たちに見守られて、ニコニコと笑っていた。
都良女は、男の子を見捨てることはできないと思い直し、抱きかかえて家へ連れて帰った。
ここから、役行者の一生が始まる。
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解 説 |
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金剛杵は、もともとインドの武器で、剣先が一つのものを独鈷杵(どっこしょ)といい、剣先が三つのものを三鈷杵(さんこしょ)という。仏具でもある。
役行者の父は、加茂役君(かもノえだちノきみ)、加茂間賀介麻(まかげまろ)という。又の名を大角(おおづぬ)ともいう。
母の都良女(とらめ)は、もともと渡都岐比売(とときひめ)という。後に、白專女(刀自女;しらとうめ)と呼ばれるようになった。
役行者は、生まれた時の金剛杵の夢にちなんで、幼い頃は金杵丸(こんしょまる)とも呼ばれていたという。大人になってからは、「役公優婆塞小角」(えのきみ うばそく おづぬ)と呼ばれ、一般的には「小角」(おづぬ)といわれていた、と伝えられる。
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解 説 |
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優婆塞(うばそく)とは、役所から正式に僧の許可をもらっていない私度僧(しどそう)をいい、尼は「優婆夷」(うばい)という。
小角は、現在の奈良県御所市茅原にある吉祥草寺の境内で生まれたといわれている。ここに、行者の「産湯の井戸」がある。
吉祥草寺の近くに、役行者が修行したとされる金剛山(左)や葛城山(右)がある。
都良女は、幼い小角を見ながら、この子は生まれる時から、何と不思議なことが多かったことかと思いながら、妙な気分がしてならなかった。
小角は、よその子とは遊ぼうともしないで、いつも一人で泥を集めてはこねまわしていた。
見ていると、それは次第に仏の顔になり、石を積み重ねては三重塔や五重塔を作っていた。
吉祥草寺 |
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吉祥草寺
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7・8歳の頃の小角は、また不思議なことをするようになった。岩場に、蛇のような形や妙な形の線を書いては手を合わせて拝んでいた。
村人たちも、変な子どもだといいながら通り過ぎるので、父親が「何を書いているんだ。」と訊いても、小角は返事に困っていた。
父は「そんなものを書くより、文字でも稽古しなさい」と叱った。
ある日のこと、この家の側を通りかかった一人の偉い僧が、小角の書くものをじっと見ていた。
その僧が「これは、誰に習ったのか」と、やさしく問いかけても、小角は黙っていた。
僧は、小角の父に「あなたが教えられたのですか」と尋ねると、父親は「教えたこともないのに、いつもこんなものばかりかいている」と不満そうにいった。
僧は、「この子の書いたものを粗末にしてはいけない」と、父を諭した。
小角の書いていたものは、梵字(ぼんじ)で、仏を表す字だった。僧が「この子は神童だ」といった。父は、驚いていた。
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解 説 |
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日本に仏教が伝わったのは、第29代=欽明天皇の宣化3年(538)とされている。
役行者が生まれたのは、これから100年余り後のこと。すでに、各地に大きな寺が建てられていた。
蘇我馬子は、摂津の国(今の大阪の一部)に四天王寺を建てた。また、609年には飛鳥大仏も完成し、623年には法隆寺の釈迦三尊も祀られている。
何も知らない子どもの小角が書いていたのは、梵字だった。梵字で、いろいろな仏を表すこともできる。
梵字は、古代サンスクリット語の基礎にもなっていて、空海や最澄が伝来させた密教とは密接な結びつきがある。
以下は、梵字で十三仏を表したもので、死者は、没して後、七日ごとにそれぞれの仏の審理を受けた後に成仏する。
仏事の法要が七日ごとに七回あるのは、審理のたびに十王に対し死者への減罪の嘆願を行うためである。
七回の審理で決まらない場合は、百ヶ日忌・一周忌・三回忌という追加の審理があり、計回の審理を受ける(十王の審理)。
七回で決まらない場合でも、六道のいずれかに行く。もし、地獄道・餓鬼道・畜生道の三悪道に落ちていたとしても助けてもらえる実質救済処置となっている。
修羅道・人道・天道にいる場合は、徳が積まれる仕組みになっている。
さらに、七回忌・十三回忌・三十三回忌という三回の追加審理がある(十三仏信仰)。
梵字の十三仏 |
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カーン |
01 不動明王 |
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カク | 02 釈迦如来 |
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マン | 03 文殊菩薩 |
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アン | 04 普賢菩薩 |
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カ |
05 地蔵菩薩 |
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ユ | 06 弥勒菩薩 |
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バイ | 07 薬師如来 |
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サ | 08 観世音菩薩 |
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サク | 09 勢至菩薩 |
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キリーク | 10 阿弥陀如来 |
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ウン |
11 阿閃如来 |
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バン | 12 大日如来 |
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タラーク | 13 虚空蔵菩薩 |
当時、大和の国は、蘇我氏の勢力下にあった。この茅原の里も、蘇我大臣の蝦夷(えみし)と、その子=入鹿(いるか)の一族の勢力下に置かれていた。
仏教が、初めて日本に渡ってきた時、物部氏は外国の仏を祀ることに反対した。だが、蘇我氏は、この物部氏を押さえていた。
蘇我氏一族は、やがて、勝手なことをするようになり、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)や中臣鎌足(なかとみのかまたり)らは、これを怒り、彼らを倒す計画を立てて、645年、蘇我入鹿を斬り殺した。
それを知った父の蝦夷は「もはや、これまでか」と、家に火をつけて自殺した。
このことで、あれほどの勢力を誇っていた蘇我氏一族は、滅びた。蘇我氏に仕えていた茅原の里も、急に主人がいなくなって、惨めで哀れな生活に変わっていった。
当時の都があった飛鳥の里 |
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飛鳥に都があった頃から建っていた飛鳥寺 |
この頃から、小角は、葛城や金剛の山へ行っては朝方に帰ってきたり、都の方へ出かけてはあちこちを歩き回り、寺や僧侶に心ひかれたり、次第に世間のことを知るようになっいった。
こうして、小角の夢の多い少年時代の日々が過ぎていった。
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